「ああ、分かってる……」 とりあえず、返答してみた。我ながら間抜けな返事だと先島は思った。もっとも、気の利いた言葉がパッと出て来るのなら、もう少し出世できていたのかもしれない。「ああ、手伝うよ……」 シートベルトを締めるのに手こずるクーカを手助けした。「さっきはあの家族を巻き込まないでいてくれて有難う」 続いて、先島が意外な事を言いだした。クーカはビックリしてしまった。 ぱちくりとした目で先島を見詰めている。「何の事かしら……」 クーカは始めて逢った風を装っている。 闘い終わって褒められることは有ったが、闘わないのを褒められるのは初めてだったからだ。「ところで、日本では武器の所持は禁止されているんだよね……」 そんな先島が言い出した。「そんな物騒な物は持って無いわ」 クーカは助手席の窓を開けて外気を入れた。「自首するという手があるよ?」 先島が話を続けて来た。「何の罪で?」 クーカは素知らぬ顔で答える。「拳銃を持っていたじゃないか」 先程の駐車場での出来事を言っているらしい。「まあ、こんな愛くるしい少女に向かってなんて事を言うのかしら……」 クーカは取り調べを受けても平気なように銃は隠して来た。後で、回収に来れば良いと考えていたのだ。「しかも、殺し屋御用達の減音器まで付いていた奴だ……」 減音器の事を知っているのは流石だと思った。一般的な日本の警察官は銃には詳しくないと聞いていたからだ。「そんな物騒な物は持って無いわ……」 もちろん、減音器もククリナイフも一緒に隠してある。「俺に突きつけたじゃないか……」 クーカは先島を殺すつもりは無かった。そのつもりなら先島は車を運転する方では無く、載せられている方になるからだ。 銃を抜いたのは、先島の殺気に身体が反応してしまったせいだ。 自分でも拙かったと思っていたので、家族連れの接近を察知した時にすぐに退いたのだ。「突きつける? 何の事だか分からないわ」 依頼されても居ない仕事を、彼女はやらない主義だったのだ。それに目に見える脅威と言う程ではない。「あくまでも白を切るつもりなのか?」 先島がムッとし始めた。からかわれていると考えたからだ。もちろん、当たっている。「あら? それじゃあ私の身体検査でもなさる?」 クーカは自分のミニスカートを少しめくってみせた。
保安室。 先島はクーカと遭遇した事を室長に報告していた。「で、本人はクーカだと認めたのか?」 室長はかなり怒っているようだった。それはそうだろう。 クーカは保安室全員で追いかけているテロリストだ。目撃したばかりか接触までしているのに確保しなかったからだ。しかも、報告したのが、取り逃がした後だからだ。「いいえ、認めた訳では無かったですね……」 先島は分かっているだけに何も言わなかった。何を言っても取り逃がした事実が覆される事は無いからだ。 しかし、本当の理由は別の所に有る。 クーカが廃キャンプ場で見せた表情と、国際テロリストの側面とが合わないからだった。 先島は全員が常識と考える事には懐疑的になってしまう部分がある。 それは組織の裏切りに散々な目に逢って来ているせいかもしれない。(きっと裏がある……) クーカほどの殺し屋を日本に呼び寄せた組織があるはずだ。そう先島は考えていた。それが何なのかを探る方を優先する事にした。(目先の事に囚われて本質を見逃すのはもうごめんだしな……) 先島は他の室員には何も言わずにクーカの調査を続けようと考えているのだ。「それで、何か対策は取ってあるんだろうな?」 そんな先島の思いを無視して室長が質問をしてきた。「はい、発信器を彼女の服に付けました」 先島はクーカの外套に発信器を付けたらしい。彼女の行動を分析して、彼なりにクーカを理解しようとしているのかもしれない。「藤井。 発信器三十六番の信号を辿ってくれ」 発信器と言っても十二時間程度しか持たない超小型のものだ。絆創膏みたいな薄型でどこにでも貼り付けることが出来る。しかし、都会などの電波を拾えるエリア限定だった。 先島はシートベルトを締める手伝いをする振りをしてクーカの外套に張り付けていた。「はい」 藤井が返事をして発信器の信号を辿り始めた。 発信器の電波は携帯の無線局を利用して収集出来る仕組みだ。そうすれば三角測定で大まかな位置が特定できる。位置が判れば付近の防犯カメラを利用して対象を探し出せるのだ。 もちろん、違法スレスレな捜査になってしまうが保安室の面々は気にしないようだ。「んーーーーー?」 藤井の指先が軽快にキーボードを叩いている。彼女にとってはいつもの作業だ。 しかし、馴れない人間が見ていると魔法の呪文を打ち込んでいる魔
食品倉庫。 指定された倉庫は国道沿いにあった。そこは商店街からも住宅街からも離れている。ただ、高速道路の入り口が近いと言う理由で選ばれたらしい。 夜になると街灯と防犯用のライトに照らし出されただけの寂しい場所だ。 しかし、夜間だと言うのに門が開いていた。守衛所には人影が無い。(どうやら歓迎会の準備が整っているようなのね……) 歓迎会とは銃でお互いの健康を祝福し合う形式に違いないとクーカは思った。 門を抜け指定された倉庫に行くと扉の所に男が一人いた。体育会系なのかやたらと身体が大きかった。 なおも近づくと自分の後ろに二人付いて来ているのに気が付いた。もっとも、門の影にいるのは分かっていた。 わざわざ、姿を見せて待ち伏せしていたらしい。(愛想のない事……) 映画のように『良く来たな』ぐらいは言っても良いのにと思えたのだ。 ヨハンセンは電話での会話の中に合図を紛れ込ませていたのだ。それはトラブルの合図だ。 クーカが仕事に失敗した事など一度も無い。ヨハンセンが巧く行ったのかと質問する時には、自分がトラブルに巻き込まれているとの合図なのだったのだ。 彼女が探すと言ったのは、ヨハンセンを監禁した相手である。 身に降りかかる火の粉は根元から消してしまうに限るのだ。 扉の男は何も言わずに開けてくれた。扉の中に入ると後ろの男も付いて来ている。 倉庫は見た目が三階建てくらいの高さで、壁にはキャットウォークもある。倉庫の中は空っぽだった。二十メートル四方の少し暗め空間が開かれていた。 クーカは倉庫の中から漂ってくる殺気に気が付いていた。自分の正面には三人いる。彼ら以外からも気配はあった。(女が一人。その両隣に男が二人……) 男たちは武器を持っているのにも気が付いた。スーツを着ているが胸の部分が妙に膨らんでいる。それに、前ボタンを嵌めていないからだ。これは銃を持っている事を意味している。素早く抜けるようにだろう。(ヨハンセンのいけ好かないオードトワレは匂って来ないわね……) クーカの鼻は訓練で敏感に出来ている。聴覚と違って意識的に感度の上げ下げが出来ないのだ。 だから、香水やたばこの煙を嫌がる。(別の場所に監禁されているのか…… もう、何やってんのよ……) ヨハンセンは元傭兵なのだ。アチコチの戦場を渡り歩き実践も豊富のはずだった。 日本
女がクーカを見てニッコリと笑った。「用があるのは貴女じゃないわ」 しかし、クーカはむすっとした表情で言い放った。「私にはあるのよ? クーカちゃん……」 やはり、自分に用があるみたいだ。名前まで知っているという事は商売も知っているに違いなかった。 ドアの男が何も言わなかったのは、やはり自分を知っていたのだろうと考えた。「ある人物を始末して欲しいのよ」 女はいきなり用件を言い始めた。しかも、厄介な感じがする用件だ。「ある人物って?」 クーカが聞いた。仕事の依頼なら普通にヨハンセンに頼めば良いのにと考えた。「内閣総理大臣の町山」 女は事も無げに言った。「……」 クーカは黙ったままでだった。「それで、あなたの彼氏には仕事が終わるまで傍に居て貰う事にしたの……」 やはり、監禁されてしまったようだ。「……」 クーカはそれでも黙ったままだ。まだ、相手の思惑が分からないのだ。「大丈夫。 仕事をちゃんと終わらせれば解放してあげるわ」 女はナイフを取り出して来た。脅しているのかもしれない。「貴女たちが約束を守るとは思えないわね……」 クーカが答えた。むしろ口封じに殺されるのが常識だ。自分でもそうする。「彼氏の事が心配じゃないの?」 女は薄ら笑いを浮かべている。人を小馬鹿にする奴に共通する鼻にかかった笑い方だ。「ごらんなさい……」 すると女はクーカの足元に布に包まれた何かを投げて寄越した。 爪先で蹴ると布包みが開き、中に入っていた指らしきものが出て来た。「ふふふ…… 誰のだか聞く必要があるかしら?」 女が煙草をくわえた。すると脇に居た男のひとりがライターに火を点けて差し出した。 そして、煙を一筋吐き出すとノートパソコンの男に合図を送った。 彼はノートパソコンをクーカに向ける。画面をクーカに見せつける為だ。 そこには片手に包帯を巻かれたヨハンセンが写っていた。画面の端にはLIVEの文字が赤く光っている。どこかに監禁されているのだろう。 ノートパソコンを操作していた男は、クーカを見ながらニヤついていた。「要するにヨハンセンは生きているのね……」 クーカの目が光った。もとより、ヨハンセンの事は気にしていない。それよりも自分の知らない組織が、自分の命を握っている気になっているのが癇に障るのだ。 なによりも一番頭に来たのは目
「ぐあっ」 男は油断していたのか外を見ていた。そこを背後から撃たれたのだ。膝から崩れ落ちてしまった。「!」 続いてキャットウォークにいた男を銃撃した。腹を撃たれた男は前のめりに倒れて一階に落ちて来た。 クーカは飛び跳ねる様に横に飛び、女の両隣に居た男二人に続けざまに銃弾を浴びせた。「うっ!」「あうっ!」 男たちはクーカの俊敏な動きに反応する間も無い。腹を撃たれた彼らはそのまま折りたたまれたように弾き飛ばされた。クーカは立ち上がり男たちの方へと歩み寄って来た。バスッバスッ 枕を殴っているような音が倉庫の中に響いていく。続けて頭部に銃弾を送り込んだのだ。男たちの頭部が西瓜のように弾けていった。 これは瞬殺と言っても過言では無い出来事。彼等はあまりにも無防備過ぎたのだ。クーカが世界中の猛者相手に生き残ってこれた理由を考慮すべきだったのだ。 だが、女は理解出来なかった。自分たちは人質を取っていて、しかも多人数で取り囲んでいたからだった。圧倒的に有利に事を運んでいるとさえ思っていた。「え?」 そう言ったきり唖然としている。 クーカはそれを無視していた。歩きながら狙いを定めて倒れた男たちの頭部に銃弾を次々と送り出していく。止めを刺しているのだ。 最後に通信係の頭部に銃弾を送り出すと、その腹に刺さっている自分のナイフを引き抜いた。絶命しているせいなのか腹から血が噴き出す事は無かった。「……」 しかし、血糊が付いている。クーカは渋面を作って通信係の上着で綺麗に拭った。愛用品が汚れたのが気に入らないらしい。 ククリナイフを背中に戻すと、グロックの弾倉を取り換えた。小型なので八発しか装填されていないのだ。 女は最初に居た位置から微動だにしていなかった。動けなかったのだ。足元には異臭を放つ水たまりが出来つつある。「わ、私が戻らないと人質の命が……」 リーダー格の女の額に汗が滲んできた。相手が子供だと思ってせいもあるが、言う程には強くないと思っていたのだ。「……」 クーカがため息を付きながら女を見据えた。何時ものように見た目で誤解されていたようだ。『脅しが通じる相手』 女は今までは他人の威光を利用してのし上がって来た。自分は他人とは違うと勘違いしていたのだ。 だが、自分が過ごして来た粗暴な人生で、明確な強さを目の当たりにした事の無い
再び多摩川上流の川べり。 先島はクーカを見かけた廃キャンプ場に来ていた。キャンプ場と言ってもバンガローやら水道設備などがある立派な物では無い。 多摩川の小さめな支流に無理やり作られたキャンプ場だ。 川べりの荒れ地を重機で均しただけ設備と名の付く物は何処にも無い。かつてのあったバブル時代に、税金対策として造成されたキャンプ場の一つであろう。 バブルの終焉と共に役割を終えひっそりとしているのだ。「まあ、交通の便が悪いし日当たりも良くないから流行ら無かったんだろうな……」 先島はそんな事を言いながらキャンプ場の中をうろついていた。 そして、この廃キャンプ場に何故クーカが居たのかを調べたかった。それと、直ぐ近所に住んで居る門田実憂との関係だ。(知り合いだから彼女を助けた?) 年頃も似たような印象を受けていたし、第一に門田はクーカを庇っているのが分かっていたからだ。 門田に事情聴取に行った時に、クーカの写真を門田に見せた。だが、知らないと言われてしまっている。しかし、門田の目の瞳孔が開いたのを先島は見逃さなかった。 人間が驚愕した時に見せる反応だった。(しかし、報告書を読んだ限りでは、クーカは外国での暮らしが長かったはず……) クーカは中米の国の出身らしいのは報告書にあった事項だ。(でも、やたらと日本語が上手だったよな……) 車の中での会話を思い出していた。。外人にとって日本語はイントネーションが難しいらしく、独特の訛りが出る物だ。 クーカの場合には普通に日本の女の子でも通りそうな発音だった。(門田との接点が何処かにあるはずだ……) 実際は偶然なのだが、そんな事は信じない先島は迷路に嵌まってしまっていた。 すると、先島の視界を何かが横切った。空を見上げてみると、トンビが上昇気流を捕まえて上空に上がって行く最中だった。「そう云えば……」 先島はクーカが泣いているように見えたのを思い出した。(焚き火を見てメランコリックになったとか……かな?) 年頃の女の子は意味不明に感傷的になると聞いた事が有る。(男の俺には分からん感覚だな…… 藤井にでも聞いてみるか) そんな事を考えながら焚き火の跡をほじくり返した。しかし、炭化した木の枝と灰が残っているだけだった。付近に焚き火の跡が無いので、クーカが焚き火したのはここのはずだった。「まあ
夜の公園。 その公園は都会のビルとビルに挟まれた小さな物だった。そこに藤井は独りでベンチに座って居た。 公園の隣を幹線道路が通っている。首都高速道路の入り口が近い道路には車がひっきりなしに通過していた。(そんなに急いでも誰も気にしていないのに……) 車が一台停車したのが見えた。 車の助手席が開き一人の男が後部座席のドアを開ける為に降りていく。 後部座席の男は席を開けて貰った例などは言わずに降りてきた。そして藤井に向かって真っすぐに歩いて来る。 初老の男だ。その態度はこの世の中は自分を中心に回っていると勘違いしているかのように尊大だった。 藤井は立ち上がって老人がやって来るのを待った。下手に動くと警護の者が飛んでくるからだ。「で、先島はクーカと接触したのかね?」 老人は挨拶抜きでいきなり言って来た。「はい」 藤井は目を伏せたまま答える。「それで、クーカの目的は探り出せたのか?」「そこまでは分かりませんが彼女を追いかけていくつもりの様です」 クーカと接触した先島の様子を彼に伝えた。「そうだろうな…… 優秀な猟犬は目の前の獲物に飛びつくからね」「彼女は暗殺を請け負っているのでしょうか?」 藤井は彼に尋ねた。「それは知らんな。 日本に来ているという事しか知らなかったからな」「はい」「先島は気が付いているのか?」「それはまだだと思います」「彼が巧く踊ってくれれば良いのだがね……」「それは私には分かりかねます……」 藤井が返答に困ってしまっている。彼女が受けた任務は先島の監視だけだ。そして、その事は先島に感ずかれていると感じている。「ああ、そこまでは期待してはおらんよ」「はい……」 そこまで言うと老人は再び車の方に戻っていった。 電話で済む様な内容だ。しかし、自分の力を誇示したがる連中は多いものだ。これもそうなのだろうと藤井は思った。 海老沢邸。 とある日の深夜。海老沢が小用の為に起きた。年のせいか夜中に何度も起きてしまうのだ。 ふと喉の渇きを覚えて台所に行くと、庭に面した窓に寄りかかって一人の男が佇んでいた。「誰だっ!」 海老沢が怒鳴り付けた。「まあ、大きな声を出さずに…… 質問に答えてくれたら直ぐにでも退散しますから……」 暗がりから出て来たのは先島だった。「……」 その時、台所に海老沢の部下が
クーカが手配されるのは構わないが、それに従って上へ下への大騒ぎになるのが困るのだ。出来れば静かに日本を退去してもらうのが一番有難いとさえ考えていた。「何故、クーカに狙われたんですか?」 先島は単刀直入に聞いた。駆け引きは必要ないと思ったのだ。「クーカを知っているという事はマルボウじゃないという事か?」 海老沢は先島をジロリと睨みつけてから言った。彼の感では先島が警察関係者までは分かっていたらしい。 この手の人たちは嗅覚が発達しているのだ。「ええ、違う種類の警察ですよ……」 先島が名刺を渡した。自分の『会社』の電話番号だけが書かれたものだ。「公安か……」 海老沢は名刺を一瞥して突き返した。一目で判ったのは過去になにかしら関係があったという事だ。 そして、名刺を付き返すのは関わり合いになるつもりが無いという意思表示だった。「クーカの事を知ってどうする。 例え公安であろうと一介の警官にどうこう出来る相手じゃないぞ?」 彼女の圧倒的な強さを知っている海老沢は、公権力の強さを認めようとはしないようだ。強さの基準が人に認められることならば、自分の目で見た事が基準になってしまうのはしょうがない事だろう。「どんな力も受け付けない。 天馬に乗り戦場を駆け抜けて死を運ぶ女さ……」 力が全てである彼の人生において、圧倒的な強さを持つ彼女の存在は憧れですらあるのだ。「クーカが殺すのはクズだけだ。 ほっといても警察の邪魔にはならんよ」 海老沢が吐き捨てるように言ってそっぽを向いた。よほど、警察の事が嫌いと見える。「俺の正義は違う所に有る。 彼女が日本の行く末にジャマになるのなら排除するだけさ」 これは本音だ。今までも邪魔になる人物が事故に遭うのを偶然見てもいる。そう、あくまでも偶然だ。 彼は仕事をする基準に日本が安全であるかどうかを気にしている。安全でないのなら、そうなるように誘導するだけだ。安全がただであると誤解しているのは何も知らない普通市民だけだ。 台所から入って海老沢の書斎を弄りまわして退散する予定だった。予定外に本人が来たので多少は慌ててしまっていた。 先島の所属する部署は、多少の無茶は目を瞑ってくれるのだ。 先島は先導するかのように台所から続く玄関ホールに出た。(彼女はここに来て手酷い歓迎を受けたようだな……) 階段の所に弾痕の
「あの娘はこれから友達を沢山作って、恋も一杯して、そしていつか結婚して子供たちに囲まれて静かに暮らす」 クーカは目を細めて『妹』の姿を見ていた。「そんな平凡な人生を送っていくの……」 打球を撃ち返せずに悔しがる妹。その妹を励ます友人たち。微笑ましい光景だ。「どれも…… お前には手の届かないものだな」 そんな様子を見ながら先島が言った。 「人は平凡なんかつまらないと言うけど、私から見れば眩しいくらいに羨ましいわ……」 実の姉が生存している事を知らない『妹』は、周りに居る友人たちと屈託なく笑っている。「彼女は私とは違う人生を送っていって欲しい。 それが私の残された願い…… 誰にも邪魔はさせないわ」 きっと何事も無ければ、妹の隣で共に光り輝いていたであろう自分の青春に思いを馳せていた。「……お前はそれで良いのか?」 先島が尋ねた。「物心付いてから今までに覚えたのは、人の殺し方と獲物を追い詰めるコツだけよ……」 クーカは口元に薄い笑いを浮かべがら言った。自分の人生にあるのは硝煙と血の匂いだけだ。今、居なくなっても誰も気に留めないし振り返られもしない。「……今更、どうにもならないわ」 きっと、どこか遠い国の知らない街の路地裏で、ひっそりと始末されるのが運命なのだと悟っている。風に吹かれると消えてしまう煙のようなものだ。「俺たちなら違う人生を送れるように手配できる」 俺たちとは先島が所属する組織の事だ。「表の世界に戻ってこないか? このまま暗闇の中をいくら走っても何も見えないままだぞ……」 先島は彼女をスカウトしようとしていた。殺し屋になるしかなかった不遇の人生を思いやっている訳ではない。 何とかして絶望の中で足掻いている少女を救いたかったの
小高い丘の上。 平日の午後。住宅街に設置されている児童公園には散策する人すらいない。 その児童公園は小高くなっている丘の上にあった。そして、公園の眼下にあるテニスコートが一望できていた。 テニスコートには部活なのだろうか、付近の中学校の生徒たちがラケットを振るっていた。 そんな学生たちをクーカはベンチに座ってぼんやりと眺めていた。「ここに居たのか…… 探したよ……」 クーカがチョコンと座るベンチの隣に先島が腰を掛けて来た。「……」 クーカは先島がやって来た事に関心が無いようだ。気が付いて無いかのように無言でコートを眺めている。 眼下に見えるテニスコートからは、テニスボールを撃ち返す音が響いて来た。それに交じって仲間を応援する声もする。 それは平和な日本を満喫するどこにでもある風景だ。「俺にもあんな時代があったな……」 生徒たちの上げる嬌声を聞きながら先島がポツリと言う感じで言った。「周りに居る大人は全部自分の味方だと信じていたもんさ」 そんな学生たちを見ながら、先島がおもむろに口を開いた。「無心に部活に打ち込んで、家に帰ってからは勉強そっちのけでゲームばかりやっていたっけ……」 もちろん人間関係の煩わしさもあったが、大人となって足枷だらけになった今とは雲泥の差だ。「……」 クーカは先島の話に関心が無いのか無言のままだった。 二人が見つめるコートの中に、一人の女子生徒が歩み出て来た。どうやら打球を受ける練習を行うようだ。 それを見ていた先島がおもむろに口を開いた。「彼女の名前は親谷野々花(おやたにののは)。年齢は14歳の中学生……」「成績は中くらいで友人は多数。 勉強は大嫌いだがスポーツは大好き」「まあ、どこにでも居る平均的な
(急がないとクーカの足取りが消えてしまう……) あの銃撃戦の跡にクーカの死体は無かったと聞く。もっとも素人に毛の生えた程度の連中では歯が立たないのは解っていた事だ。恐らくは無事に脱出している物だと考えていた。(まずは当日の監視カメラ映像を藤井に頼むか……) ポケットから携帯電話を取り出そうとした。カツンと何かに触れた感覚がある。 先島は上着のポケットにメモリスティックがある事に気が付いた。「なんだ?」 もちろん、そのメモリスティックは自分のものではない。会社の物でもない。「……」 先島は車に積んであるノートパソコンを起動した。メモリスティックの中身をチェックする為だ。 ノートパソコンに差し込んで中身を確認したが0バイトと表示押されている。それが増々不信感へと掻き立てた。「これは…… クーカが使っていた奴なのか?」 先日の事件があった時。 怪我で気を失う寸前に、くーかが何かを落としていたのを思い出した。殆ど無意識のうちに握り込んでいたのであろう。 きっと、先島を救助してくれた隊員は、私物と思ってポケットに入れてくれたらしい。 問題は中身が何なのかだ。「物理トラックを解析トレースしてみるか……」 ファイルの消去と言っても、単純な消去では物理的な領域を消されている事は少ない。ファイル消去後に何も操作されていなければ中身自体は残っている可能性が高いのだ。それを読み出せる状態にしてあげれば消去ファイルを復活させることは可能だ。 先島は自分のパソコンにインストールされている復元ツールを使って復活させる事にした。作業自体は難しくは無い。ツールが示すコマンドを認証していくだけだ。後はツールが推測して勝手にやってくれるのだ。 ほんの一時間程度で終了した。 もう一度メモリスティックの中身を表示させてみると、そこには改変前と改変後のファイルがあった。「やはり、何
都内の病院。 医者が言う事を聞かない人種はどこにでもいる。 先島もその一人だ。傍に居る医者は渋い顔をしていた。「どうしても。 仕事に戻らないといけないんですよ」 病院のベッドから起き上がった先島は、そんな言い訳にもならない事口にしていた。 ところが、先島の担当医は首を縦に振らない。一緒に居た看護師もあきれた顔をしている。「せめて縫い合わせた所が融着するまでは退院は許可できません」 そう言ってメガネの下から先島を睨んでいる。 致命傷では無かったが、弾は身体をすり抜けているのだ。少し動けば再び出血してしまうのが分かっている。そうなれば命に係わるので反対しているのだった。「いいえ。 自分が担当している事件は時間との勝負なので……」 そんな事は意にも介さずに自分の荷物(元々そんなに無かったが)をまとめ上げていた。 病院に見舞いに来ていた青山に、車を置いていってくれと頼んでおいたのだ。「駄目なものは駄目だと言っている」 医者は更に言い募ったが、先島は医者の忠告を無視しながら身支度をしていた。「歩ければそれでいいんで……退院しますね?」 先島は既に上着を羽織っていた。元より人の言う事を聞かない男だ。「万が一の事が有っても責任は持てんよ?」 医者は最後まで首を縦に振らなかった。「元々、自分の命は使い捨てですから……」 先島は自嘲気味に言いながら病室を後にした。 そんな先島の後姿を見ながら、医者は首を振りながらため息をついた。手元のボードに何かを書きつけて、次の患者の診察の為に歩み去った。 工場が無事に爆破されたのは知っている。青山がこっそりと教えてくれた。きっとクーカが始末してくれたのに違いない。(大人としては是非とも礼を言わないとな……) 工場はボイラー設備で不具合が発生して、『小規模な火災』が発生したと処
クーカは手近な樹に向かって手を伸ばした。 指先を何枚かの葉が滑っていく。 やがてガシッとした手ごたえがあった。枝を捕まえる事に成功したのだ。しかし、クーカの身体と落下速度を支える事が出来ない枝は直ぐに折れてしまった。 でも、クーカの身体を樹木の傍に引き寄せる手掛かりにはなった。クーカは何本かの枝の間を転げる様に落下していく。「うぐっ!」 一番下と思われる枝に腹をしたたかに打ち付けたクーカが呻き声を上げてしまった。彼女とて痛みは感じるのだ。「ぐはっ」 枝から地面に落ちたクーカは、肺の空気を全て吐き出してしまったかのような声が出てしまった。(は、早く…… 工場の敷地から脱出しないと拘束されてしまう……) 彼女は朦朧とした意識の中、脱出の事だけに専念した。クーカは痛みを無視する事が出来る様に訓練は受けている。痛みも彼女にとっては雑念の一種なのだ。すぐに立ち上がって周りを見渡し用水路を目指した。ヨハンセンが待機していると言っていたからだ。(ここからなら、拾い上げポイントまでたどり着ける……) クーカは工場のすぐそばを流れる用水路に飛び込んでいった。先島の事もチラリとよぎったが、まずは自分の安全が優先だと判断したのであった。 工場が吹き飛び爆炎を上げるのを鹿目は虚ろな目で見ていた。色々と画策したが何一つ手に入ることが出来なかったのだ。(どこで、間違ったのだ?) 挫折を知らない鹿目は戸惑っていた。彼の間違いはクーカを歯車の一つとして扱ってしまった事なのだろう。「ふっ、これでも私は日本を思っての行動だったのだがね……」 鹿目はぽつりと漏らした。傍には室長と藤井が控えている。藤井は鹿目との接触を全て室長に報告していたらしい。「人間のクローン技術は、今後の日本が強くなっていく為には必要な物なんだよ……」「……」 隣に
鹿目の工場。 目的の物を手に入れたクーカは台座の隠し扉から出て来た。もはや室内には物言わぬ骸しかいない。辺りを見回して少しだけため息を付いた。自分が入って来たエレベーターの出入り口に向かっていった。(応援が降りて来ているかも……) ひょっとしたらと身構えながら覗き込んでみる。しかし、誰もエレベーターシャフトには居なかった。急に応答が途絶したので対応が分からないのであろう。 クーカがシャフトを見上げると、自分が入って来た入り口は机のような物で塞がれてしまっている。エレベーターの箱は四階と五階の間で停止しているらしかった。(二階…… いいや、三階だったら待ち伏せされる可能性が薄いはず……) 自分が入って来た壁が塞がれているという事は、そこで待ち伏せされているに違いないと踏んでいた。自分でもそうするからだ。 安全に表に出る為には彼らの裏をかかないといけない。別段、殲滅しても構わないのだが、厄介な荷物を背負っているので避けたいところだ。(そこでジッとしててね……) 一階の塞がれた穴に向かって、そう心の中で呟くと一気に跳躍した。 クーカはエレベーターシャフトの中を、ジグザグに跳躍しながら登っていく。彼女の持っている身体能力の御陰だ。「んっ!」 三階のエレベーター口に辿り着いたクーカは、扉をこじ開けて中に入って行った。 すると『ズズンッ』とビルが振動するのが分かった。研究所の爆発が始まったみたいだ。小規模な爆発の連鎖で建物の構造を弱くしてから一気に破壊する。爆破解体と呼ばれる手法だ。(その後で焼夷爆弾で完全に燃やしてしまうと……) 外国のウィルス専門の研究機関では、燃焼温度が三千度にもなるテルミット反応爆薬が使われる。ここもそうしているに違いないと確信していた。証拠をもみ消すには完全に消滅させる必要があるのだろう。「……」 少し急ぐ必要性を感じていた
「?」 クーカが小首を傾げる。「特殊なキーが必要なのさ……」 大関の額から汗が垂れ始めた。「どうせ、貴方の網膜認証と指紋なんでしょ?」 クーカが目を指差しながら聞いた。ありふれた防犯装置だからだ。「ああ、生憎と怪我で動けなくなってしまったね……」 大関はそう言ってニヤリと笑った。その足元には血溜まりが出来始めている。銃撃戦での流れ弾に当たったのだ。「じゃあ、本人が生きている必要があるの?」 彼女は大関にグッと顔を近づけて言い放った。「現物を持っていけば良いだけなんじゃない?」 以前にも似たような装置を突破した事があるのだ。今回も同じ方法を取るつもりらしい。「え?」 大関は咄嗟にクーカが言った事が理解出来なかった。自分の命に価値があるとでも勘違いしていたのであろう。「まて、わしが死ぬと……」 大関がそこまで言いかけたがクーカは迷わず引き金を引いた。一発の鈍い音と引き換えに大関は首を垂れてしまった。「安全装置が働いて工場が自爆と言った所かしら……」 それは想定内だ。クーカは腰から小型のナイフを取り出した。これからの作業にククリナイフでは大きすぎるのだ。 仏像の台座に入り口があった。指紋と網膜の認証のようだ。クーカは大関から取り出した指と眼球を使って扉を開けた。 そこには階段があってもう一階分下がるようだ。降りていくと机と研究設備が並ぶ空間があった。しかし、そこは放棄されたかのように無人だった。研究者たちは予め逃がされていたのであろう。 無機質な空間が煌々と明かりで照らされている。 その中をクーカは銃を構えたままゆっくりと進んでいく。警備員がいる可能性はあるが配置されている可能性は少ないと考えている。「んがっ!」 不意に足元が崩れた感覚に襲われ膝を突いた。目の前の空間がいきなり曲がりくねった
地下一階。 全員が銃を構えたままエレベーターを見つめている。不意に開いた扉から何かが室内に放り込まれてきた。「手榴弾っ!」 誰かが叫んだが投げ込まれた物は、床に落ちる音と同時に炸裂した。強烈な音と閃光がホール内に充満した。「くそっ! スタングレネードかっ!」 警備隊長が自分の目を手で覆い隠しながら唸るように喋った。「撃てっ!」 だが、その掛け声よりも早く、ホール内に侵入を果たした者がいた。全員が目を離したので気が付くのが遅れたようだ。「ぐあっ!」 クーカは飛び込んで最初の男の首にナイフを突き立てた。そのままの体勢で隣に居た男の首を跳ね、返す刀で三人目の腹を切り裂いた。ナイフを使ったのは自分の存在を悟られるのを遅らせる為だ。(手前の右側に三人。 左側に二人。 左奥に二人。 右側奥に三人。 大関は一番奥の台座……) 彼女は右側の三人を始末している隙に、地下に居る人員の配置を見ていた。 男たちはいきなりの目くらましに気が動転しているのか銃を入り口に向けたままだ。次のターゲットはこの二人。その前に左奥の二人の内モニターを監視していた男にはナイフを投げ込んでやった。ナイフは男の首に刺さったが、傍に居たもう一人は咄嗟にしゃがみ込まれてしまった。牽制はとりあえずは成功だ。 クーカは腰から銃を取り出し、左手前の二人に銃弾を送り込んでいく。二人は横合いから来る銃弾に反応できずに、何が何だか分からない内に絶命してしまった。 ここまで掛かった時間は一分も無い。しかし、尚も台座に向かって突進していくクーカ。「くそっ! 小娘がっ!」 モニターの所に居た男が立ち上がって拳銃を撃って来た。しかし、クーカには当たらない。銃弾を右に左に避けながらクーカは男に迫っていく。「何故、当たらないんだっ!」 男は尚も引き金を引き続ける。しかし、銃弾はクーカの身体を捉える事無く床に後を残すだけだった。弾道が見えるクーカには無意味な行為だ。「悪鬼め……」 男の懐に飛び込んだクーカは右手のククリナイフで男の腕を薙ぎ払らった。それから、左手の銃で男の顎下から撃ち抜いた。 男は仁王立ちの状態からゆっくりと倒れていった。クーカはそのまま男の影から右奥の男たちを銃で撃ち倒した。 右奥に居た男たちはアサルトライフルを構えていたが、クーカが倒した男が邪魔で撃てなかったらしい。その
工場の入り口。 ここに来るまでに妨害行為は皆無だった。工場内に兵力を集中させたと見るべきだろう。 工場の入り口には監視カメラが有った。クーカはカメラに向かって携帯電話をかざして何やら操作した。(よし…… これで時間が稼げるっと……) 彼女は強力な赤外線を放射させて、監視カメラのCCD部品を飽和させたのだ。 こうすると自動回復するまで暫くは時間が稼げる。外国の強盗団が良く使う手口だ。 普段なら銃の形をしたアイテムを使っている。だが、今回は日本に持ち込む暇が無かった。(確か…… この辺よね……) 彼女はエレベーターホールに辿り着いた。そして、ホールの隣に有る掃除用具などがある備品室に入り込んだ。 クーカは保安室で見せて貰ったビルの設計図を覚えていた。 五階にあると言う秘密エレベーターの入り口に行く気は無かった。敵が待ち構えているのは分かり切っているからだ。(入るのに手間が掛かるのなら、壁に穴を開けてしまへば良いのよ……) 彼女はショートカットするつもりなのだ。別に友好的な訪問をしに来た訳では無い。真面目に敵の希望通りに動く必要も無いだろう。 背中に背負ったウサギのナップザックを降ろして中から四角い粘土のような物を取り出した。(加減が難しいのよね……) 壁に粘土のような物を張り付けていく。映画やドラマでお馴染みのC4爆薬だ。自在に形を変えられるので、こういう作業には向いている爆弾だ。(ん?) 爆薬を壁に張り付けていると、エレベーターの動作音が聞こえて来た。(誰か降りて来る……) いきなり監視カメラが使えなくなったので様子を見に来たのであろう。「……」 仕掛け終わったクーカは爆弾を爆発させた。爆弾の爆風は動作していたエレベーターの安全装置を作動させ停止させてしまった。(これで何人かは閉じ込める事が出来たっと……) 懐から降下用器具を取り出し、エレベーターのワイヤーに固定した。これを使って一気に降りるのだ。爆破音が響いた以上は、敵に何が起きたのかは伝わってしまったはずだ。 固定を確認するとクーカは中空に身を躍らせた。降下器具はゆっくりとだが彼女を静かに地下へと降ろしていく。(地下には何人いるのかしら……) 降下しながらクーカは考えた。もっとも敵の数は彼女にとっては問題では無い。掛かってしまう時間の方が問題だった。だから、